プロラボとソシュール

昔の写真をレタッチしていて、「どうせ自分のアーカイブを造り直すなら、フィルムも入れたら目新しくて楽しいのでは?」と思いついたので、深い考えなくスキャナを引っ張り出してフィルムのスキャンを始めてみたら、これが色々と大変な作業で、思いつきで適当に始めるような事じゃなかったと後悔しつつも、デジタル化前の写真は古いデジタル写真と同じようにわくわくするのもまた確かである。

2004年程度のデジタル導入初期の写真は試行錯誤の繰り返しで、どうやったら安定して写真が創れるか?というのが目に見えるようだけど、2000年前後のフィルム写真は「どうやったら写真が撮れるか?」という、写真ってなんだろう?という探求になっていて、自分なりの答えを知っている今としては「迷ってるなあ」と昔の自分を思いつつも、フィルム写真をとんでもない量を撮って、写真の最も写真らしい部分を探求する情熱が写真から伝わってきてわくわくする。

写真を見ると、損得度外視で気軽にシャッターを切って実験をしているので、今とやっている事は変わらないと言えば変わらないけども、その場で実験の結果が見える今とは隔世の感で、当時はプリントを見ても何を実験したのか忘れたりしてたのだよね。デジタルは楽でいいなあ。


そんなプリントをスキャンしてトーンとコントラストをいじろうとするのだけど、いじる所が無いのが凄い。メーカーのプリントマンが現像しているラボに出していたので、当然プロのプリントマンが写真を調整してくれていた。いわゆる機械現像ではないプロラボ。だから階調もコントラストもいい塩梅でいじる所が無い。当時は当たり前だと思ってたけど、ラボの中の人は腕が良かったのだね、それもかなり。

そんな階調とコントラストの素晴らしいプリントだけど、色温度は色見本をつけてなかったのでプリントマンの好みでやらざるを得ず、写真が赤かったり緑だったりとフィルターワークが多彩で、結果として凄く面白い写真になっている。今の仕組みだと色温度は現場で「今日は夕方っぽく」とか、「日曜の早朝っぽく」とか照明そのものの温度を変えられるし、その時の色温度を記録するのも簡単。そんな適切な色表現が実現して事故の起きる余地をなくした結果、偶然はなくなり簡単に必要な絵が造れるようになった。でもこの「事故が起きない状況」というのは偶然や奇跡は無く、また創造性はむしろ必要ない状況で、新しい技術の発見が全くとは言わないけど、凄く少なくてわくわくしない(事故と奇跡は同じ事だからね)。


で、当時のプリントマンが想像でプリントしている写真は自分では絶対に創らない色温度になっていて、それがまたなんとも言えない体温というか温度や質感を出していて凄く面白い。風景写真が凄くエロティックだったりと、「こういう手もあるんだなあ」と関心しきりである。ソシュールじゃないけども、撮り手とレタッチャーに意思の疎通をさせずに写真という触媒を介して対話させると、こういう面白い事が起きる。美術そのものが非言語のコミュニケーションだけど、創る時も言語を使わない方がハレーションが起きて面白いね。






写真は2000年くらいだと思われる。フィルムはコダックのポートラ160VC。
都立大の富士フィルムの大規模ラボが無くなり、都内に沢山あった堀内カラーの営業所がめっきり減り、フィルムという画材も無くなりつつあるけども、たまにはフィルムで撮ってみようか。